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スーセントマリー(英: Sault Ste. Marie、仏: Sault-Sainte-Marie)は、アメリカ合衆国ミシガン州アッパー半島東端に位置する都市。同州チッペワ郡の郡庁所在地である。人口は16,542人(2000年国勢調査)で、アッパー半島の都市としてはマーケットに次ぐ規模である。ミシガン州では最古、アパラチア山脈以西で3番目に長い歴史を持つ都市で、その歴史は1668年にさかのぼることができる。 スーセントマリーはカナダとの国境になっているセントメアリーズ川の河岸に形成されている。対岸のカナダ側スーセントマリーとはスーセントマリー国際橋で結ばれている。ミシガン州側の南詰は州間高速道路I-75の北の終点になっている。 スーセントマリーの名を知らしめているスーセントマリー運河はセントメアリーズ川の両側に掘られている。この運河はスペリオル湖とヒューロン湖の高低差に起因するセントメアリーズ川の急流を克服して船舶を通すために閘門を用いている閘門式運河である。同様の形式の運河にはパナマ運河などの例がある。国内外の大型の船舶が通るのは主に4つの閘門を有するミシガン州側のほうである。同運河を通る船舶には長さ300m、幅30mを超えるものもある。ただし、これはスペリオル湖(主にダルース港)とヒューロン湖・ミシガン湖・エリー湖を行き来する船舶に限っての話である。ナイアガラ滝を回避するウェランド運河を通航するにあたっての制限があるため、アメリカ合衆国外やオンタリオ湖以東からの船舶はそこまで大きくない。また、スーセントマリー運河はアッパー半島の観光名所のひとつでもある。これに夏の涼しさと周辺の自然環境、近隣のカジノを活かした観光業がスーセントマリーの主産業である。 ==歴史== この地にはもともとネイティブ・アメリカンのオジブワ族が住み着いていた。何世紀にもわたって、スーセントマリー周辺は生活の糧となる魚に恵まれていた。この地に初めてヨーロッパ人が足を踏み入れたのは1668年のことであった。フランスから訪れたイエズス会の宣教師、クロード・ダブロンとジャックス・マルケットはこの地を布教の拠点とすべく教会堂を建て、アパラチア山脈以西では3番目となる町を建設した。 町の北を流れるセントメアリーズ川が急流で船舶の航行が困難であったため、スーセントマリーは船荷の積降地として栄えていった。スーセントマリーを経由した連水陸送でヒューロン湖側からスペリオル湖側、またはその逆に船荷を移すのには何週間もかかった。1855年、この急流を避け、2つの湖の高低差を克服して船舶を通すために閘門を用いたスーセントマリー運河が開通した。この運河の開通によりスペリオル湖とヒューロン湖以東との水上交通路が確立され、スーセントマリーのみならずダルースやマーケットなどスペリオル湖岸の港湾都市が発展していった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スーセントマリー (ミシガン州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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